日本でのバナナ輸入組合設立へ 日本バナナ輸入組合 理事長 清水信次氏

清水信次 NOBUTSUGU SHIMIZU

大正15(1926)年、三重県生まれ。昭和18(1943)年、旧制大阪貿易語学校(現:開明中学校・高等学校)卒業後、日中戦争に出征。復員後の昭和20(1945)年に清水商店の代表となり、昭和31(1956)年、清水実業株式会社(現:株式会社ライフコーポレーション)を設立、代表取締役社長に就任する。昭和36(1961)年、スーパーマーケット「ライフストア」を豊中市に開設後、全国へ広げる。現在は、同社代表取締役会長兼CEOを務めるほか、日本スーパーマーケット協会名誉会長、社団法人全国スーパーマーケット協会名誉会長なども兼務する。

台湾からの「移入」が、日本のバナナの始まり

スーパーに行くと年中見かけるバナナ。
近年の輸入量は100万トン前後を推移し、
消費量はみかんやりんごを抜いて1位となっています。
バナナは日本人にとって身近な果物の一つですが、
現在のように気軽に食べられるようになるまでには様々な歴史がありました。
日本に初めてバナナが入ってきたのは、明治36(1903)年のことです。
台湾から7籠[かご](約70kg)のバナナが神戸港に到着したのが始まりです。
日清戦争(1894~1895年)後、台湾が日本に割譲されたことにより、
台湾バナナが「移入」されるようになったのです。
当時、台湾は日本の統治下にあったので、「輸入」ではなく「移入」という言い方をされました。
甘くておいしいバナナは瞬く間に日本人を魅了し、明治末期から昭和初期にかけて、
入荷量は年々増えていきました。戦前のピークとなった昭和12(1937)年の年間移入量は14万トン。
露天商による「バナナのたたき売り」があちこちで見られるようになりました。
明治から大正時代には高嶺の花だったバナナに一般の消費者の手が届くようになったのです。
ところが、同じ年に日中戦争が始まり、続いて太平洋戦争も勃発。輸送力が軍に取られてしまい、
戦争末期の昭和19~20(1944~1945)年には、
台湾バナナの移入が完全にストップしてしまいました。

  • 貨場に搬入された台湾バナナ
  • 台湾バナナは竹で編んだ籠に入れて輸送されていた
  • 九州の中心都市で貿易港として発展していた門司港で、
    大正後期に始まった「バナナのたたき売り」
  • 昭和初期の市場の様子
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バナナ輸入ゼロからの再開

昭和22(1947)年、
日本に進駐していたアメリカ軍用に台湾バナナの輸入が再開されました。
その後、台湾バナナと日本の薬や化粧品、水産物の缶詰、
日用雑貨などを交換する「リンク制」による取引が可能となり、
日本人へ販売することが認められるようになりました。
民間貿易が正式に許されるようになったのは昭和25(1950)年のことでしたが、
外貨不足による輸入規制があったために、昭和35(1960)年ごろまでの輸入量は、
年間2~4万トンととても少なかったのです。
数が少なくて高価なのに、「とにかくおいしい」と大人気だったため、
バナナは輸入するそばから飛ぶように売れていきました。
それで、限られたバナナの輸入権利(外貨割当制)を得ようと、
たくさんの業者がバナナビジネスに参加したのでした。

  • 日本の港に到着し、陸揚げされるバナナ
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「輸入自由化」後の混乱を鎮めた「組合」の活動

戦後の復興を果たした日本は、国際経済の要求もあって、
昭和38(1963)年にバナナの輸入自由化を発表しました。
自由化で業者はますます乱立し、輸入競争が激化。
バナナ業界は収拾のつかない状態になっていきました。
そこで、無秩序な業界を一つにまとめ、混乱を終わらせようと、
昭和40(1965)年に設立されたのが「日本バナナ輸入組合」です。
早くからバナナビジネスに携わっていた私は、ほかの主要団体とともに、
当時の通商産業大臣、三木武夫氏などと何度も話し合いを重ね、組合設立に奔走しました。
バナナが市場へ大量に出回ることで、りんごやみかんなど、
国産果実が壊滅的な打撃を受けないように「秩序ある輸入を主導してほしい」という
政府の要請を受けてのスタートでした。初代理事長には砂田産業の砂田勝次郎氏が就任。
私は柴田産業の柴田勇氏らとともに常務理事になり、
総務委員長として政治家や官僚との折衝に当たりました。
その後は業界の秩序統制だけでなく、バナナの品質や輸送等の改善、
国内での安定供給に努力を傾注いたしました。
組合発足の昭和40(1965)年に35万トンだったバナナの輸入量は、
昭和47(1972)年には106万トンへと、ぐんぐん伸びていったのです。
(グラフ:「日本のバナナ輸入量」参照)

日本のバナナ輸入量

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フィリピンバナナが登場。今や9割超のシェアに

バナナの輸入量が飛躍的に伸びた背景には、
自由化をきっかけに、台湾バナナが独占していた日本の市場に、
南米のエクアドル産やフィリピン産のバナナが登場してきたというのがあります。
伝統的な台湾バナナの業者に加えて、
多くの総合商社も台湾以外の地域でのバナナビジネスに参入するようになりました。
なかでも目覚ましい活躍をしたのは、
フィリピンバナナの開拓のために伊藤忠商事と組んだドール
(当時:キャッスル&クック社)でしたね。
昭和45(1970)年にはエクアドル産がシェアNo.1でしたが、
わずか3年後の昭和48(1973)年、
ちょうど第1次オイルショックの年にはフィリピン産がNo.1となりました。
それから現在まで、フィリピンバナナはずっと圧倒的にNo.1。
平成22(2010)年のシェアは93%でした。

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バナナはかつて"高級"フルーツだった

今では安いフルーツと見なされているバナナですが、かつては本当に珍重されていたのです。
昭和22(1947)年に輸入が再開されたころには、
訳あり品が1籠3~5万円(1kg 750円~1,250円)で、取引されたという記録もあります。
サラリーマンの平均月給が1万~1万5千円程度だった昭和32(1957)年頃のバナナは、
5~6本で250円でした。現在の初任給は約20万円として、20倍になっていることから計算すると、
現在の貨幣価値では5,000円相当になり、1本1,000円もしたのです。
輸入自由化前のバナナがいかに高価であったかがわかり、
今のように気軽には食べられない高級フルーツだったといえますね。
輸入自由化以降はバナナが市場にあふれるようになります。
昭和47(1972)年は1kg 139円だったのが昭和60(1985)年には286円まで値上がるなど、
多少の変動はありますが、平均して200円前後で推移しています。
(グラフ:「主要果物とお米の小売価格の推移」参照)

主要果物とお米の小売価格の推移

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食べやすくて栄養満点だから、みんなに愛される

今、バナナは日本で一番食べられているフルーツです。
(グラフ:「バナナ・りんご・みかんの1世帯あたり年間購入量」参照)どこのスーパーマーケットに行っても、
一番目立つ場所に並んでいますよね。これは皮をむくだけですぐに食べられる手軽さだけでなく、
栄養面でもとても優れていることや、スポーツ時のエネルギー補給に最適だということが
よく知られるようになったからではないでしょうか。
余談ですが、中曽根康弘氏が総理大臣時代に忙しくて食事がとれないときは、
机に入れていたバナナを食べていたと聞いたこともあります。
「日本バナナ輸入組合」は、昭和59(1984)年からバナナの滋養をアピールする活動に力を入れてきました。
そして現在は、主にバナナの通関速報や輸入調査統計の収集、バナナのあらゆる情報を紹介するサイト
「バナナ大学」の運営、各種メディアを通じた消費普及活動に取り組んでいます。
オイルショックなどの情勢不安もあり、昭和50(1975)年前後は下降傾向にあったバナナの消費量が、
昭和60(1985)年からまた徐々に上がり始めました。
平成16(2004)年から生鮮果実の中で消費量No.1となっている理由の一つには、
組合のPR活動もあったのではと思っています。
健康のためにもぜひ毎日食べていただきたいバナナ。
あらゆる技術開発や構造改革を率先してきたリーディングカンパニーであるドールとともに、
今後もバナナの良さを広めていきたいですね。

バナナ・りんご・みかんの1世帯あたり年間購入量

  • 第1回「日本バナナ輸入組合」総会